2017年6月9日金曜日

「忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染っている蜜柑」蜜柑 芥川龍之介

あらすじ

 曇った冬の日、私は檻に入れられた犬に似た心情であった。二等客車にのり出発を待っていると、直前に13,4才の田舎娘が乗って来た。憂鬱さが消えない私は、彼女の愚鈍さや夕刊の普通さ、トンネルの中にも苛立っていた。
 小娘は窓を開けようとするが、固くて必死だった。やっと開けられた時、トンネルの中だった。煤臭い空気がどっと入って、私は咳き込んだ。すぐに土や枯草や水の匂いが香って、落ち着きを取り戻した。トンネルを抜ければ、貧乏くさいボロ屋が広がって、踏切に3人子供が並んでいた。電車が見えるとすぐに手を挙げた。小娘が身を乗り出して手を振ると、忽ち心を躍らすばかり暖かな日の色に染っている蜜柑が五つ六つ子供の元に落ちた。奉公先へ向かう娘が投げたのだ。私は得体の知らない朗らかな心もちが沸き上がって来るのを意識した。
 改めて小娘を見ると、元いた場所に座っている田舎娘だった。
 私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。

暖かさは憂鬱を忘れさせる。

 憂鬱に駆られている彼は、気持ちを誤魔化そうとして何を見ても苛立ちを感じた。小娘が子供に投げた蜜柑は、子供たちに対する彼女の暖かさである。曇りであり、日はないにもかかわらず、彼はそれが暖な日の色に染まっている蜜柑に見えた。その暖かさは彼に伝わり、彼の憂鬱を少し忘れさせたのだ。