2017年4月4日火曜日

「その心相当の罰を受けた」 蜘蛛の糸 芥川龍之介

あらすじ

 朝方に、蓮の白い花から好い匂が絶間なくあたりへ溢れる蓮池のふちをお釈迦様はぶらぶらと歩いていた。お釈迦様は蓮の葉の間を覗くと地獄にいるカンダタが見えた。お釈迦様は彼の行った生前で唯一の善行を思い出した。その報いとして銀の細い蜘蛛の糸をたらして彼を助けようとした。その善行とは、この男が深い林を通っている時に、路ばたを這う蜘蛛を見つけたので、踏んづけて殺そうと足を挙げたが、この小さい命をむやみにとるのは可哀そうだと思いなおし助けてやったことだ。
 上からつりさげられた蜘蛛の糸を見てカンダタはこれを伝えば天国にいけると確信して、すぐに上り始めた。疲れて休憩した時に下を覗くと、地獄は遠く、小さくなっていた。そして、この糸をたくさんの人が上ってくるのが見えた。カンダタは糸が切れるのを恐れて、下に向かって「この糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と喚いた。その瞬間に今までなんともなかった蜘蛛の糸がぷつりと切れて、カンダタは地獄へ真っ逆さまに落ちてしまった。
 お釈迦様は一部始終見ていた。お釈迦様は悲しくなったが、またぶらぶらと歩き出した。自分ばかりが地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその相当な罰を受けて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様の目から見ると、浅ましく思われたのだろう。そんな出来事があったにもかかわらず、極楽はいつものように、白い花はゆらゆらうてなを動かして、好い匂があたりに溢れていた。ただの午前のひと時の出来事だった。


 善行が褒美を生むのではなく、その心を持っているからこそ、それ相当の褒美が得られる。同様に悪行が罰を生むのではなく、その心が相当の罰を生み出す。


 ふつうの人では善行とは言えない。しかし、カンダタが善い心を持った瞬間である。


 お釈迦様が地獄にいるカンダタに向けて糸を垂らした理由は彼が生前に善行を行ったからである。
 泥棒や人殺しもしているカンダタが行った唯一の善行は、路ばたで這っている蜘蛛を踏み殺さなかったことだ。しかし、これは善行と言えるのだろうか。路ばたで這っていようが無視すればいいのだが、カンダタはわざわざ踏み殺そうと足を挙げた。ことのき蜘蛛は死を感じただろう。結果としてカンダタが蜘蛛の命を可哀そうに思い踏み止めたが、それは無駄に命を殺そうとしたが止めただけである。相手に死を感じさせて、それを止めることがふつうは善行であると言えない。ただ、結果殺さなかったのだから、殺すことが常の悪人カンダタからすれば善の心を持った瞬間であり、善行であるといえるのだろう。

 善い心のままであれば極楽へ行けた。

 カンダタは糸をのぼる地獄の住人に「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いた時に糸は切れた。しかし、それはこの言葉ではなく、糸を伝う途中で休憩して下を向いたことでこの言葉を発する、無慈悲な心が生まれたからだ。もし彼が下を見ずに夢中でのぼり続けていれば結果は変わっただろう。

 善行こそが相応の褒美を得られるとすると、お釈迦様は悪人である。

 カンダタは極楽へ行けると期待しながら地獄へひっくりかえってしまった。この、期待しながら落ちていったことは、唯一の善行である蜘蛛に死を覚悟させながら止めたことと対比される。
 このことから蜘蛛に行った善行は地獄から出る希望を与えるのみに等しいと思われる。しかし、それは間違いである。善行こそが褒美を生むと考えると、お釈迦様が落とすことを意図して糸を垂らしたのなり、お釈迦様は悪人といえる。しかし、彼は極楽に居るのでそうではない、本当にカンダタを助けるつもりであったのだ。

 心こそがその人間の環境を表す。

 この話は善い行いをしたからチャンスを得て、悪い行いをしたから絶たれたという因果応報を描いているのではない。 善行が褒美を生むのではなく、その心を持っているからこそ、それ相応の褒美が得られる。同様に悪行が罰を生むのではなく、相当な心が罰を生み出すとことを書かれている。


 呟きたいこと

 自分に利益がかえってくると期待して行うことは善行ではなく、投資である。これは褒められることではない。利己的では決して極楽へ行けないと言っているようだ。
 極楽の穏やかさと地獄のせわしなさの対比がとてもきれいだ。地獄では極楽に上がれる千載一遇のチャンスでてんやわんやしているのにもかかわらず、極楽では単に午前の一時であり、まだ今日が始まったばかりである。
 悪人のせわしなさと、心の清い人の余裕が比べられていて、それを極楽と地獄で表現されているようだ。

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