善人は多大な敵意、多衆の誹謗と猜忌に滅ぼされる。
ソクラテスが訴えられた理由は、実在しない空虚なものだった。しかし、そこには確実に敵意がみられた。
彼が多大な敵意と、多衆の誹謗と猜忌を向けられるきっかけとなったのは、彼の智慧を高めようとした行動である。つまり、神から一番賢い人間はソクラテスと言われて、その言葉の真意を確かめようと、賢人と思われる人に話に伺い、無知の知を知っているが故に私の方が賢い、と述べたからだ。
自ら賢人と思っている人間を目の前で否定すれば、憎悪を抱かれるのは当然である。そして、それを長年に渡りたくさんの人に続けたため、憎悪が膨れ上がってしまい、裁判にかけられることになった。そのため彼を訴えるための事件などはなく、彼の考えは青年を腐らせるから、という抽象的な理由であった。
本当に青年を腐らせているならば、時間が経つにつれて治っていたり、その青年の親族から非難されていもおかしくないが、そんな話は聞いたことがなかった。なので、その訴えが嘘のような作り話であるのは明白だった。
彼が大衆を先導していたのは、神からのお告げであり、善意からの行いだった。なので、その判決が何であれ、自分のためになる良いことが起こると信じていた。
死刑となったが、彼はそれが自分にとって良い事と思った。もし陪審員の同情をかっていれば、死ぬことは免れられるが、自分の行いを公正に判断された結果でなくなってしまうため、善い判決が出るとわからない。しかし、彼は毅然とした態度をした。神のお告げにしたがい、良い行いをしたための裁判なので、判決はきっと彼にとって良いはずである。
逆に、死刑に票を入れた人たちは、ソクラテスに危害を加えようとする試みからであった。彼を慕う人からの非難が押し寄せて、これまで以上に嫌な思いをするのは明白だった。つまり、憎悪に駆られた悪意ある行動なので、不幸が待っていると簡単に予想される。
ソクラテスの死は幸福であるか、不幸であるか、わからない。しかし、彼が死ぬのは、多大な敵意、多衆の誹謗と猜疑からであった。
知らないと自覚できる人は賢い。
神のみが知っていることを、ソクラテスは知らないとを自覚している。けれど、賢人と言われている人たちはそれを知ったふりをしていた。
神から一番賢いのはソクラテスだとのお告げを彼なりに解釈すると、神のみが知る事物を人間が知ることはできないが、それを知らないと自覚している人間がいるとすれば、それが一番賢いのかもしれないということだった。
ソクラテスは死について、知らないと自覚しているから、一般的に最大の不幸である死が、幸福の可能性もあると考えることができた。それは知らないことを、知っているとして、決めつけないからこそ、考える余地があったからだ。
死について知っているのであれば、それは一つの解釈しか持たないことである。つまり、死は幸福か、不幸かのどちらかしかない。死を幸福とするならば生きている状態は修行だと苦しんだり、死を不幸とするならば死を恐れれ苦しんだりする。どちらにしても、神のみしか知らない問題を考えて悩んでいる。
死について知らないと知っている人は、幸福である可能性と、不幸である可能性があるのを知っているし、死ぬまでそれはわからないと考えられるのだから、死に苦しめられない。
つまり、知らないことを自覚できる人間は、知らないことを知っている人間より、賢い。人間における賢さは、知識や見聞が多い事よりも、知らないと自覚できるほうが重要であるということだ。
○無知の知がパワーワードすぎて、いろいろな解釈をされているが、ソクラテスは無知の知を知っている人は単純に賢いとだけしか言っていない。