善人は多大な敵意、多衆の誹謗と猜忌に滅ぼされる。
ソクラテスが訴えられた理由は、実在しない空虚なものだった。しかし、そこには確実に敵意がみられた。
彼が多大な敵意と、多衆の誹謗と猜忌を向けられるきっかけとなったのは、彼の智慧を高めようとした行動である。つまり、神から一番賢い人間はソクラテスと言われて、その言葉の真意を確かめようと、賢人と思われる人に話に伺い、無知の知を知っているが故に私の方が賢い、と述べたからだ。
自ら賢人と思っている人間を目の前で否定すれば、憎悪を抱かれるのは当然である。そして、それを長年に渡りたくさんの人に続けたため、憎悪が膨れ上がってしまい、裁判にかけられることになった。そのため彼を訴えるための事件などはなく、彼の考えは青年を腐らせるから、という抽象的な理由であった。
本当に青年を腐らせているならば、時間が経つにつれて治っていたり、その青年の親族から非難されていもおかしくないが、そんな話は聞いたことがなかった。なので、その訴えが嘘のような作り話であるのは明白だった。
彼が大衆を先導していたのは、神からのお告げであり、善意からの行いだった。なので、その判決が何であれ、自分のためになる良いことが起こると信じていた。
死刑となったが、彼はそれが自分にとって良い事と思った。もし陪審員の同情をかっていれば、死ぬことは免れられるが、自分の行いを公正に判断された結果でなくなってしまうため、善い判決が出るとわからない。しかし、彼は毅然とした態度をした。神のお告げにしたがい、良い行いをしたための裁判なので、判決はきっと彼にとって良いはずである。
逆に、死刑に票を入れた人たちは、ソクラテスに危害を加えようとする試みからであった。彼を慕う人からの非難が押し寄せて、これまで以上に嫌な思いをするのは明白だった。つまり、憎悪に駆られた悪意ある行動なので、不幸が待っていると簡単に予想される。
ソクラテスの死は幸福であるか、不幸であるか、わからない。しかし、彼が死ぬのは、多大な敵意、多衆の誹謗と猜疑からであった。
知らないと自覚できる人は賢い。
神のみが知っていることを、ソクラテスは知らないとを自覚している。けれど、賢人と言われている人たちはそれを知ったふりをしていた。
神から一番賢いのはソクラテスだとのお告げを彼なりに解釈すると、神のみが知る事物を人間が知ることはできないが、それを知らないと自覚している人間がいるとすれば、それが一番賢いのかもしれないということだった。
ソクラテスは死について、知らないと自覚しているから、一般的に最大の不幸である死が、幸福の可能性もあると考えることができた。それは知らないことを、知っているとして、決めつけないからこそ、考える余地があったからだ。
死について知っているのであれば、それは一つの解釈しか持たないことである。つまり、死は幸福か、不幸かのどちらかしかない。死を幸福とするならば生きている状態は修行だと苦しんだり、死を不幸とするならば死を恐れれ苦しんだりする。どちらにしても、神のみしか知らない問題を考えて悩んでいる。
死について知らないと知っている人は、幸福である可能性と、不幸である可能性があるのを知っているし、死ぬまでそれはわからないと考えられるのだから、死に苦しめられない。
つまり、知らないことを自覚できる人間は、知らないことを知っている人間より、賢い。人間における賢さは、知識や見聞が多い事よりも、知らないと自覚できるほうが重要であるということだ。
○無知の知がパワーワードすぎて、いろいろな解釈をされているが、ソクラテスは無知の知を知っている人は単純に賢いとだけしか言っていない。
2017年7月5日水曜日
2017年6月9日金曜日
「忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染っている蜜柑」蜜柑 芥川龍之介
あらすじ
曇った冬の日、私は檻に入れられた犬に似た心情であった。二等客車にのり出発を待っていると、直前に13,4才の田舎娘が乗って来た。憂鬱さが消えない私は、彼女の愚鈍さや夕刊の普通さ、トンネルの中にも苛立っていた。
小娘は窓を開けようとするが、固くて必死だった。やっと開けられた時、トンネルの中だった。煤臭い空気がどっと入って、私は咳き込んだ。すぐに土や枯草や水の匂いが香って、落ち着きを取り戻した。トンネルを抜ければ、貧乏くさいボロ屋が広がって、踏切に3人子供が並んでいた。電車が見えるとすぐに手を挙げた。小娘が身を乗り出して手を振ると、忽ち心を躍らすばかり暖かな日の色に染っている蜜柑が五つ六つ子供の元に落ちた。奉公先へ向かう娘が投げたのだ。私は得体の知らない朗らかな心もちが沸き上がって来るのを意識した。
改めて小娘を見ると、元いた場所に座っている田舎娘だった。
私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。
暖かさは憂鬱を忘れさせる。
憂鬱に駆られている彼は、気持ちを誤魔化そうとして何を見ても苛立ちを感じた。小娘が子供に投げた蜜柑は、子供たちに対する彼女の暖かさである。曇りであり、日はないにもかかわらず、彼はそれが暖な日の色に染まっている蜜柑に見えた。その暖かさは彼に伝わり、彼の憂鬱を少し忘れさせたのだ。
2017年5月19日金曜日
「人間は見切りが肝腎」俗臭 織田作之助
あらすじ
児子家は父が死んで一家散々に大阪で生活した。百万の富を築いた長男である権右衛門の妻の雅江は、娘を伯爵との婚約にうまく運ばせようとして、必死だった。金があるこの家にないものは品であったからだ。そのため自ら雅江は鼻を成形したり、パーマネントを当てるほどだった。しかい、夫の弟である千恵造の妻が、偏見を持たれる生まれであることを知って、別れさせようと躍起になり、千恵造が朝鮮に駆け落ちすることになった。権右衛門は雅江を怒り、兄弟で会社を作ると言って、千恵造を連れ戻し、別れさせることができた。そして、すぐに再婚させるが、元妻と再び駆け落ちしてしまった。
金を持っても俗臭は消えない。
雅江は自分の功績を大きく考えている。自分の容姿を好くすることが娘の婚約を円滑に進めるために必要と考えているが、鼻を整形するほど必要とは思えない。彼女は強くコンプレックスを抱いているだけだ。彼女が実際に与える周囲への影響は、彼女が思っているよりも小さいことがうかがえる。
権右衛門は人情よりも、金を大事に思う。灸の老婆を見捨てたのも、伝三郎が手を挟まれた時、それに気づきながら葉巻を吸えたのはそのためである。しかし、それが商人としてうまくゆく秘訣だと考えている。
金を持ったところで、備わっている性質は変わらない。そして、金に操られているか、金で買えない権威に操られていることが俗臭なのだ。
2017年5月11日木曜日
「誰もが猛獣使い」山月記 中島敦
あらすじ
李徴は才能もあり、頑固な所があった。そして、卑しい行いが嫌だったため、官を退いた。死後読み続けられるような詩人になりたかった。しかし、うまくいかず数年で官職に戻るが、馬鹿と思っていた同期の地位は高くなっていて、その命令を受けなければならなかった。彼はそれで自尊心が傷つけられた。ある日、彼は闇の中へ飛び出した。
袁さんが途を行くと、ここは人食い虎が出てくるので、日が昇るまで待った方が良いとの忠告を受けたが、急がねばならなかったため無視をした。そして、彼は虎にあった。虎は襲ってきたが、すぐに意識を取り戻したかのように叢に隠れ、袁さんに話しかけてきた。そして、彼はその虎が同年の親友である李徴だと気が付いた。
李徴は「なぜ虎になったかはわからない。そういう不条理もあるのだ。
虎の本能が勝る時と、人間の思考ができるときが交互に訪れる。そして徐々に虎の本能が占領してきている」と言った。そして、人間の言葉をはなせなくなる前に作った詩を後の世に伝えて欲しいと袁さんに頼んだ。その詩を聞いた袁さんはうまいが感動はしなかった。
李徴は虎になったのは臆病な自尊心が原因かもしれぬと感じていた。詩人になりたいくせに、師も持たずかといって親友と切磋琢磨もせず、普通に仕事にも付かなかった。これは臆病な自尊心と尊大な羞恥心とのせいである。自分に才能がないと思い知らされるのを怖がって刻苦もせず、才能があると中途半端に信じることで庶民に紛らなかった。そして、次第に世と離れて、噴悶と恥で己の臆病な自尊心を飼い太らせることになったからだというのであった。
月が消えてきて、李徴はもう虎に戻らねばならぬからと言って、最後に自分の妻子についての心配を袁さんに託した。すると自嘲的になって、すぐに妻子を心配すべきなのに、自分のくだらない詩のことばかりを気にしているからこんなふうになった囁いた。もうこの途には来るなと袁さんに言って、袁さんを帰らせた。
自尊心の強い奴は閉じこもると羞恥心が肥大して、自嘲的になる。
自尊心の強いやつは、自意識過剰が故に過度に自嘲的である。
虎になった自分の言葉は誰にも届かないと李徴は言っているが、目の前の袁さんには届いている。ただ、何か世間のように具体的にはよくわからない物を作り出してしまい。自分を蔑むようになる。
自嘲的な詩はいくら言葉がきれいで体裁が整っていても美しいと思わせられない。
大体の人は彼に興味がないし、結局は他人に興味がない。彼が自意識過剰になって、自分の境遇を憐れんでいても、それは伝わらない。ただの自分を守るための言い訳を聞かされているように、思えるからだ。つまり、詩の韻や言葉使いが美しくても、自嘲的な詩は美しくない。そして、それが評価されることはない。
誰もが触れられたくない感情を持っている。
虎の本能を自尊心とすると、人間の頭は理性的と解釈できる。誰もが猛獣を飼っているというのは、誰でもコンプレックスがあり、それを突かれると情緒的になってしまうということだ。それが猛獣であれば誰も触れようとせず、傷つけられることがない。
李徴は羞恥心の虎を飼っている。この話は自尊心の強い人が猛獣を肥やしてしまうと、孤独になり狂うことを伝えている。我々の中に羞恥心の虎がいないからと言って安心できるのではない。我々の中にも何かの猛獣は居て、それを飼い鳴らすか、育ててしまうかで、周りを助けるか傷つけるかわかれるだろう。そして、年を取るごとに顕著に表れてゆくだろう。
2017年5月10日水曜日
「まあ何て嫌なやつらだろう。また悪魔だ。大きなことばかり言ってやがる」イワンの馬鹿 レフ・トルストイ
あらすじ
兵隊のシモン、商人のタラス、馬鹿な農夫のイワンは兄弟であった。シモンとタラスがイワンにお金の無心をしても、イワンは馬鹿であるから素直に渡した。悪魔にそれを見られて、3人の仲を引き裂こうと策略された。
シモンとタラスは小悪魔に大きな野望を抱かされて、悪魔に飲まれていったが、イワンは馬鹿であるからそそのかされなかった。そして、悪魔によってシモンとタラスが一文無しにさせられた。悪魔の計略で、残すはイワンだけでるが、彼には欲もなく悪魔がどんなことを言っても伝わらなかった。なので、イワンを陥れることができなかった。
悪魔は頭を使って仕事をしようと村で唱えていたが、イワンの村人は誰一人理解できず、悪魔は倒れてしまった。
イワンは手がごつごつしている人にはご飯をあげて、手のきれいな人には残飯をあげるルールができた。
金や権威や楽して働きたいと思わず、地味に働くことが大切だ。
兄たちが悪魔にとりつかれたのは、権威欲や金欲があったからである。イワンはそれがなかったので悪魔に飲まれなかった。イワンが万病を治す木の根を悪魔から貰えたのも、将来のことを考えていたからではなく、ただ単に今の腹痛を治したかっただけである。食う物にも困っておらず、権力が欲しいとも金が欲しいとも思わず、そして馬鹿であるから、将来のことより、今直面している問題しか考えられないからだ。
イワンはやさしいのではなく、馬鹿だ。人助けしようというのはやさしさだが、イワンは充足しているから足りない人に上げるというだけであり、決して優しさからではない。また悪魔を汚いという理由で殺そうとしたのは恐ろしい。姫を助けようと家を出たが、手の動かない老婆を助けてしまったのもまた、治す力を持っているからである。相手が姫だとか老婆とかは差別していないのだ。
手のごつごつした人は真面目に労働している人だ。頭が悪く成果が出ない時もあるが、手の綺麗な怠け者と違い、うまくいく時もある。
大きな欲望に飲まれて、地味に働けなくなった人になるのではなく、馬鹿であってもいいので実直な人間になるべきだ。
東大を目指している人と、そこそこの大学を目指している人は同じ受験生なのだが、東大を目指している自分は頭が良いと勘違いするというのが、大きな欲望は現状を見誤るという例だろう。
働いている時間が長ければ偉いと勘違いするのは馬鹿である。けれど、長く時間を費やしているというのは素晴らしいことで、頭の善し悪しで効率が代わる仕事でなければ、つまり単純な肉体労働であれば長い時間に比例して成果は出てくる。怠け者は何をやらせても怠けるので救いようがない。
2017年5月4日木曜日
「合理的には、それを善悪のいずれに片付けてよいかしらなかった。」羅生門 芥川龍之介
あらすじ
京都は飢饉だった。下人も腹を透かして盗人になるかと思案するほどだった。そして、羅生門の上の楼で一晩をしのごうと覗きに行くと、そこにはガリガリの老婆が死人の髪を毟っていた。下人はすぐさま老婆を追い詰めた。すると老婆はこの女も生きていくために嘘をついて商売していたのだ。私も生きていくために髪を毟っているので、女も許してくれると言った。
下人は覚悟を決めて老婆の着物を剥いだ。生きていくためにやるのだ許してくれるだろうと言って、暗闇に走り出した。
卑しさに飲まれるのも仕方ないが、それ相応の罰を得る。
下人は頬のニキビを度々気にしている。これは外面を気にしていることから、気高さを捨てられないでいたことが読み取れる。盗人になるしか生きる選択肢がないにも関わらず、実行に移す勇気が出なかったのもその理由である。まだ理由も知らないうちから老婆が死体の髪をむしっているのに嫌悪感を抱いていたのも同じである。
老婆の命は下人の手に握られていた。そして、着物を剥がされてしまった。人の命を握られるのは神くらいである。このような書き方は、神が卑しい人間の行いに下している罰といえる。
老婆の言い訳を聞いて、下人は気高さがなくなった。着物を剥ぐとき、自分が餓死することなど考えになかった。ただ、淡々と自分が盗人になれる理由を見つけただけだった。
そして、盗んだ後は黒洞々たる夜に消えていき、誰も行方を知らない。つまり、つかえていた家に戻らなくなったと表していて、おそらく死んだか盗人になったのかどちらかである。下人の気高さは言い訳を与えるとすぐに消えてしまったのだ。そして彼も幸せな生き方をできなかったのだ。
人は気品や気高さを持てばとても美しいが、簡単に卑しくもなれる。そして、卑しくなればそれ相応の生き方しかできない。
2017年4月27日木曜日
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」桜の樹の下には 梶井基次郎
表には裏がある。そして表裏は一体であり、裏を知らずには表を知られない。
安全剃刀は、気持ちが好いほどに表裏一体を表している。また、華やかな蜉蝣の結婚は、蜉蝣の死体を基に成り立っている。きれいな桜の裏は何かと想像すると、そのきれいさに見合うほどの汚さが必要である。それを彼は桜の樹の下には屍体が埋まっていると想像して、安心した。そして、桜のきれいさを享受できるようになったのだ。
華やかな物を素直に受け入れられない人間が想像を働かせている。
2017年4月26日水曜日
「生きんとする意志であろう」冬の蠅 梶井基次郎
あらすじ
彼は病気を深い渓の間の宿で療養していた。その部屋には数匹の蠅がいる。冬なので夏のような不逞ははい。部屋の窓を開けると、彼らと一緒に日光浴にいそしんだ。しかし、彼は日光を憎く思ってもいた。それは日光が彼を、体力がないのに張り切らせるからだ。
彼は郵便局から帰ろうとしたが、バスに乗って遠くまで行き、二三日フラフラしていた。暗い森の中で彼は身体が生きようとしているのに気づいた。近くの温泉で帰る日を伸ばした。そして、疲れ切ってあの部屋に戻ると、蠅はいなくなっていた。彼のいない間に誰も日光を当てなかったから死んだのだろうと思った時、それは私においても誰かが世話をしているのだろうと思って、自尊心が傷ついた。
生きる意志が選ぶ場所からは出られない。
都会で生活していたが、体力をなくして、それができなくなった。あこがれだけは持っているが、今の場所から出られない。都会のような喧騒な光は華やかであるが、動き回らなくては生きていけないのである。彼と蠅はその渓間の宿のその部屋にしか生きられないのだ。彼はそれを無視して数日遠くへ行くが疲れて、生きる意志により戻っていった。そして、蠅がいなくなったことから、自分はこの箱で誰かから生かされていて、自分がこの箱を選んでいるわけではなく、この部屋を選ばされていると感じたのだ。
2017年4月24日月曜日
「あんなにしつこかった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる」檸檬 梶井基次郎
あらすじ
彼は意味のない憂鬱に駆られていた。陰気な暗い場所を好む彼は、寺町の果物屋に目が行った。そこは、華やかに彩る通りにひっそりと佇んでいた。置かれているレモンを手に取ると、形と香りと、ひんやりする冷たさに心地よく感じた。そして、気分も善くなった。彼は丸善によってみた。すると再び気分が悪くなった。画集をとっては置いてをくりかえすと、隣に積み重なった画集の城ができていた。彼はその上にレモンを置いて店を出ていった。あれは爆弾で、丸善が吹っ飛べばいいと思いながら、滑稽な看板画が描かれている京極へ歩いて行った。
檸檬は、憂鬱を楽しい空想に変化させる。
彼は貧乏であるが、お金に困っているわけではない。大学へ向かう同居人の友達を見送るが、憧れているわけではない。薄暗いところがただ好きなだけ、その時の気分に合っていたと言うのがただしいのかもしれない。彼は何が理由で憂鬱を感じていたのかわからないので、対処のしようがなかった。
それから目を背けるしかできない。
レモンイエロー色の檸檬に目がいったのは、本来の彼が好むような華やかであったからだ。手に取り匂いを嗅いぐと、それまで抱いていた憂鬱を押しのけて、酸っぱいあの香りで頭がいっぱいになりる。また冷たさも、きもちがいい。そうなることで憂鬱から目を背けられた。
丸善の画集をみると、再び憂鬱に駆られる。それは画に憂鬱さを感じたからだ。
画は実在の物をただ写すわけではない。風景画にしても、現実と同じものはない。著者がフィルターを通すので無機質な画はない。彼はその苦しみを感じて再び憂鬱に襲われたのだ。しかし、檸檬を触れば再び治り、画集の著者も苦しみから開放してやろうと、積み上げて上に檸檬を置いた。彼はとても優しい人だ。
スッキリした気分で外に出た。そして、あんな憂鬱が屯している空間なんて吹っ飛べと思いながら、滑稽な楽しい画の描いている街へ、楽しくなって向かったのだ。爆発は死ねという意味でなく、溜まっている憂鬱を吹っ飛ばせといういみだろう。檸檬が爆弾のように憂鬱をふっ飛ばしてくれたらいいという意味だろう。
檸檬は彼を憂鬱から引っ張り出して、楽しい空想に変化させた。そして、それが多くの悩んでいる人に檸檬を持つことで、そこから脱してほしいと願ったのだろう。檸檬でなくてもいいのだが、憂鬱は目の前に起こっていることや、匂いや触覚で吹き飛ばすことができると伝えたかったのだろう。
2017年4月21日金曜日
「人間は、時として、充たされるか充たさらないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。」芋粥 芥川龍之介
あらすじ
五位だが、ブスなおっさんは皆から馬鹿にされていた。しかし、彼はそれを特に何も思わなかった。
彼の夢は腹いっぱいに芋粥を食らうことだった。友人の利仁がいっぱい食わせてやると言って、彼を京都から敦賀まで連れていった。彼の屋敷についてから、徐々に芋粥が食べたくなくなってしまった。目の前に出てきた時、彼は食べる前に腹いっぱいになってしまっていた。そして、この願いが適う前の自分をうらやましく思った。
充たされるか充たされないか、わからない欲望は、生きる糧であり、持ち続ければ苦難を耐えられる。
五位は冬に突然、利仁に連れられて敦賀まで向えたのは、芋粥をたらふく食えることを期待していたからである。それがあるから寒さに耐えることができた。が、大量の芋粥を提示されると、それは五位にとって適えられる欲望になり下がる。つまり、芋粥を食べることは大したことのない欲望になってしまうのだ。利仁が芋粥を食べさせてやるから敦賀に行くと言わなかったのは、五位が知れば芋粥を食らう欲望は実現されるものになってしまい、魅力がなくなると知っていたのかもしれない。
大きな欲望を分不相応だからと言って持たないのは論外であるが、結局つまらない欲望になるのだからと言って、ニヒルになって持たないのも愚かだ。
五位は芋粥を食う狐を見て思い出し、大きな欲望を持っていた自分がうらやましくなったのだ。つまり、夢が適った現在を歓んでいるのではなく、夢を追いかけたり、打ちひしがれているた気持ちになりたがっていたのだ。
2017年4月19日水曜日
「あの屏風を見るものは、大苦艱を如実に感じるからでもございませうか」地獄変 芥川龍之介
あらすじ
天才で気違いな画師の良秀は、嫌われていた。逆にその娘は器量が良く皆に慕われていた。女房として働いていた屋敷の大殿様からは贔屓にされていた。
或る時大殿様は良秀に地獄の屏風を描けと命じた。彼は地獄の苦悩を感じながら描いていたが、見たものしか描けぬと言って大殿様に相談した。大殿様は彼の言う通り、車をを焼き人を殺して見せた。良秀は車の中に娘がいると気づいて近づいたものの、その景色に、苦しい顔でみとれていた。屏風は完成したが、彼はすぐに自殺した。娘を殺してしまったことを背負って生きていけなかったのだ。
画家が生きるために必要なのは興味であり、生物が必要なものは愛である。
画家としての良英は、画のためならば人を殺してもよいと考えていた。それは大げさな考えでなく、身分の違う大殿様に直談判ぐらい真剣なものだった。そして、娘が死んでいく姿を網膜に焼き付けようと必死に、俯瞰して眺められるのだ。
娘を殺してしまったことに耐えられなくなったのは、画を描き終えてすぐである。
良秀は地獄変の屏風を描き終えて、画家から人に戻った。もう人として生きられなかったのだろう。猿が娘を追って死んだのも、愛がなくては生きていけぬからだろう。
他人は人の性格や考えを、勝手に解釈する。
ある晩に娘が襲われたが、彼女が相手が誰かと言わないことや、大殿様が贔屓にしていた娘を車の中に入れて殺そうとしたことから、犯人は大殿様と考えられる。
話し手は大殿様が色目で娘を見ているという噂を何度も聞いていたが、全てただの噂と受け流して、娘を殺してもまだ、これは良英に教育するためと言った大殿様を信じていた。
これは、状況から判断していずに、言葉だけを信じているからである。
横川の僧都は、良英に対して勝手に推量して娘よりも画を優先した馬鹿者と、気に食わなかったが、画を見て苦しみを背負っているのだと知って、考えが変わった。
この転換の原因は、実情を知ったような気になって、たいして考えていないことから始まっている勘違いからである。しかし、他人の出来事のすべてを知ることはできない。なので、他人の考えは勝手な推量になってしまう。
○娘は誰が襲ってきたとは言わなかったのにもかかわらず、大殿様は罪人として殺してしまったのだ。大殿様は恥を感じたのだろうが、それもまた勝手な推量である。
○大殿様を拒否したことが罪だと思ったか、それとも父の画のためと思って死んでいったのだろうか。
2017年4月18日火曜日
「弥陀も女人も予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡の類にはかわらぬ」邪宗門 芥川龍之介
あらすじ
詩歌管弦をたのしむ若殿は中御門のお姫様と懇意の仲になった。しかし、天上皇帝を敬う新たな沙門が四条河原に現れた。彼は中御門のお姫様と幼馴染であった。彼はお姫様が仏菩薩を拝む宗教を信じていれば地獄に落ちるような気がしていたので、天上皇帝を拝むようにさせたかった。それを知った若殿の使いの物は勝手に判断して、沙門を殺そうとしたが、不思議な魔力によって跳ね返された。御堂供養をしているとき、沙門は阿弥陀堂に現れて、横川の僧都と戦い、僧都を魔力でねじ伏せた。その時、若殿がふらりと現れた。未完
力ずくより、話し合って納得させることは難しいが、お互いに穏やかで助けあう関係が築ける。
若殿が平太夫に殺されそうになった時、取り巻きを言葉で寝返らせ、難を逃れた。しかし、強引な大殿様は熱に浮かされて死に、沙門は若殿の使いのものを力ずくでねじ伏せ根に持たれている。そして、沙門は魔力で他教徒をねじ伏せ、自分の教えは正しいと主張していた。沙門の前に若殿が現れて物語は未完で終わってしまったが、話の流れからして、言葉で沙門をねじ伏せるのだろう。
力ずくで強要するのは簡単だが、人に裏切られたり、根に持たれる。しかし、相手を話で納得させることは難しいが一番都合の好い関係が保たれる。そのためには情熱にほだされない冷静な判断が必要である。若殿は恋愛も主教も俯瞰して眺めているので、それができるのかもれない。
○沙門はおそらく、若殿と昔よく、論じ合っていた菅原雅平だろう。
○ファンタジーなので活字よりもアニメーションで見たほうが楽しい。
2017年4月14日金曜日
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」杜子春 芥川龍之介
あらすじ
親の遺産を使い切った杜子春は助けてくれる友人もおらず、門の前で困っていた。爺さんに「この夕日の中に発って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっているはずだから」と言われた。
大金持ちになった杜子春は、酒池肉林のパーティー三昧で数年で空になった。誰もが、自分から離れて言った。再び爺さんに会い、「今度は胸に当たる所を、夜中に掘ってみるが好い」といわれて、大金持ちになったが、3年ですっかりなくなった。
再び爺さんに会い、「今度は腹に当る所を、夜中に掘ってみるが好い」と言われたが、彼は「金は要らない、人間の、金持ちには追従するが、貧乏になると逃げていく。そんな薄情さに愛想が尽きた、仙人にしてください」と頼んだ。
杜子春は峨媚山の岩山に連れて行かれて、仙人が帰ってくるまで何も話すなと命令された。杜子春はいろいろな魔性に脅されたが、一言も発しなかった。死んだ父母を閻魔大王が呼び寄せて、目の前で痛ても彼は何も発しませんでした。すると、耳元で「私たちがどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。」母の声が聞こえて、その世間の人たちとは違い、自分の身も考えず、息子のことを思う事に涙を流して、思わず「お母さん」と言ってしまった。すると元の門に佇んでいるのに気づいた。
杜子春は仙人になれなかったが、なぜかうれしかった。仙人は「お前が黙っていたら命を絶ってしまうつもりだった」と述べた。杜子春は人間らしい、正直な暮らしをしようと決めた。
生きていることに愛を感じれば、お金に囚われることなく、人間らしい生活を享受できる。
お金を人生の中心にしても、満足な生活ができない。
杜子春は愛に満たされていなかった。それを埋めめるために豪遊したが、結局傷ついただけだった。彼はもっと金があれば、傷つけられないと思っていたので、2度も同じことをした。金の量を増やしたところで変わらなかった。だからと言って、貧乏な暮らしを受け入れることもできなかった。このお金を生活の中心に考えても満足な生活はできなかった。
人は誰でも愛されていて、その記憶は心にある。
あらゆる拷問に耐えていたが、母からの一言で彼はついに声を漏らしてしまった。これは母の愛が言葉に現れた瞬間であるが、目の前にいたのは、母の顔をした痩せ馬である。この一言は生前の母が言いそうな言葉でなければ、彼の心を打つことはできなかっただろう。母の愛は常に彼の中にあったのだが、目の前の快楽に酔っているうちに忘れていたのだ。仙人は彼がそれを欲しがっているから、思い出させたのだ。
お金は愛の代わりにならない。愛を思い出すことで、お金中心の考えを拭いさる事ができ、本当に人間らしい生活で満足できる心になった。
○仙人は常に杜子春の求めていることをしていた。彼の命を絶とうとしていたのも、彼が願っていたからだろう。
2017年4月11日火曜日
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」或阿呆の一生 芥川龍之介
或阿呆の一生は一貫して阿呆を描いている。しかし、芥川龍之介は本当に彼のことを阿呆と思って描いているのだろうか。一つ一つの章に人間の心理が隠されている。そこから出た言葉は阿呆とは言えないものばかりだ。我々は時によって、阿呆が言うから受け止められる指摘もあるのだろう。
アフォリズムのようなこの小説は著者の嘆きのようだ。隠れた意味に我々は彼の考えを知ることができるのだろう。しかし、後半になるにつれて著者は疲れてしまっているように、皮肉も薄くなって、直接的な表現になっていた。
偉大な作家の背表紙を読んでいただけなのに、肩を並べた気になって、周囲を見下した一言である。主人公は阿呆である。しかし、我々はボオドレエルの一行より価値のないことも、誤魔化せない事実である。
電灯技師が自分のことを黒光りのする、大きいダイナモと思っていたことから、頭のおかしさと、大きいダイナモから自意識が過剰であることがわかる。
精神疾患は周囲を飲み込み、その影響力の大きさは必要以上に患者自身が感じて、苛まれていることを表現されているようだ。
本質を見ずに現象だけで考えてしまっているようだ。しかし、愛し合うものは苦しめ合ふとの一言は、頭に引っかかって取れない。その一言は芯を突いているからだ。
題である軍港が阿呆とすると、対して目立たず言われるまでわからない、些細なものを、象徴のように扱っていることを皮肉に書いたことになる。
我々は対等だと考えることは恋心を抱いている。そして、恋心を抱くから、出会いをランデ・ブウと言うのだ。彼は彼女が夫のいる身分で躊躇なく恋愛に走ることを予感している。彼は恋心を抱いているが、理性によって妨げられていた。それが、憎悪となって、彼女の夫に女の心をとらえていないからだと軽蔑するになった。
どんなに評価されてても、苦悩が取れないのだろう。
家族ができる喜びはあるが、それに精神を束縛される苦しみで、一度目の結婚は終わった。彼は壊れるのを恐れて涙だをこらえる彼女を、遠くに見えるのは破壊された一度目の結婚だ。と言って、泣かせて助けようとした。
彼は生活的宦官から脱したかったのだろう。しかし、方法は見出したのだが、体力のなさに諦めていた。
生前に死は保険のように安心を与えたのだろう。そして、死ねば平穏が与えられる。その両方を考えていたのだろう。
アフォリズムのようなこの小説は著者の嘆きのようだ。隠れた意味に我々は彼の考えを知ることができるのだろう。しかし、後半になるにつれて著者は疲れてしまっているように、皮肉も薄くなって、直接的な表現になっていた。
一 時代
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」偉大な作家の背表紙を読んでいただけなのに、肩を並べた気になって、周囲を見下した一言である。主人公は阿呆である。しかし、我々はボオドレエルの一行より価値のないことも、誤魔化せない事実である。
二 母
瓶の中の精神疾患があった脳髄にかすかな白いものを発見し、次に彼は空き瓶の破片を植えたレンガ塀のコケが白んでいるのを見た。レンガ塀を見れば、一つのブロックが積み重なるので、遠くからであれば脳のしわのように見える。これは精神疾患が瓶の中を飛び出して大きなものを飲み込む様子が描かれている。電灯技師が自分のことを黒光りのする、大きいダイナモと思っていたことから、頭のおかしさと、大きいダイナモから自意識が過剰であることがわかる。
精神疾患は周囲を飲み込み、その影響力の大きさは必要以上に患者自身が感じて、苛まれていることを表現されているようだ。
三 家
家が題名であるのと、傾いた部屋という語彙を強調しているから阿呆なのは家である。つまり、そんな場所にいるから喧嘩をするのだ。けれど、愛し合ふものは苦しめあふとの一言を彼は考えていた。本質を見ずに現象だけで考えてしまっているようだ。しかし、愛し合うものは苦しめ合ふとの一言は、頭に引っかかって取れない。その一言は芯を突いているからだ。
四 東京
小蒸汽から見える隅田川の向う島の桜は、自分の昔のこととを表している。小蒸汽は止まらない時間を表していて、隅田川はそことはかい離されている。昔の記録は人から見えればきれいだろうが、自分は思い出すと憂鬱になるようなものだ。東京とはそんなものなのかもしれない。五 我
半日車に乗っていた理由を車に乗りたいからと言った先輩のおかげで、彼は合理的でない、楽しみを知った。それからカフェの無駄な装飾に目がいった。六 病
椰子は70年に一度だけ花を咲かせることを知って、彼は自分の短い命を思うと苦しくなった。しかし、それを受け入れて、遠くの海のむこうに高々と聳えている椰子の花を想像した。病は短い命を表している。七 画
画を見て、その中に吸い込まれていった感覚になった。その感覚は反対に目の前の風景を他人に眺められているような物だ。これは私が彼を見ているが、彼も私を見ていると言いたいのだろう。画でさえそうだと言っているようだ。八 火花
雨が故に火花が放たれているのだが、雨という状況で火花は散っているのだ。彼の上着のポケットに隠していた原稿こそ、彼にとって架空線から放たれる火花の種のようだ。生きることは雨の日のように辛いことだが、その中でも命を変えてまで、火花を打ち上げてみたいのだろう。九 死体
死体の匂いは不快であるが、美しく、物語を仕上げるために必要な素材であった。必要に駆られるのならば、人殺しもいとわない。人の肉体は美しく、人の心には価値が乏しいと感じていたのだろう。十 先生
本に残された先生の考えに彼の考えは追いついた。どちらがすばらしいということもないが、追いついた瞬間であった。先生というだけで、立派に映ることも阿呆と言える。十一 夜明け
先生に会うことで、自分の世界が明るくなった。それは会った瞬間ではなく、少し時間が経ってから明るくなった。阿呆であるから時間が掛かってしまったのだ。十二 軍港
薄暗い潜航艇の中から明るい軍港をみた。あれが金剛ですと言われると、ビイフ・ステエクの上にもかすかに匂っている阿蘭陀芹を思い出した。題である軍港が阿呆とすると、対して目立たず言われるまでわからない、些細なものを、象徴のように扱っていることを皮肉に書いたことになる。
十三 先生の死
先生の死を受け入れようとしていた。新しいプラットホオオムの隣には、鶴嘴を上下させて鼻歌を歌う工夫がある。古い物が形を失うことの苦しみは、新しい物が生まれるであろう歓びと相反する。それがうねるように頭で走っているが、いずれ夜は明けて、歓ぶのだろう。十四 結婚
伯母の一言を伝えるのも、無駄と指摘されたものを持ちながら謝るのも、ただの挑発である。結婚が生んだ無用な気づかいである。十五 彼等
東京と距離を置くのであれば、もっと置け。汽車で1時間かかるのが平和なのか。十六 枕
枕は耳心地の良い物で、半身半馬身は非現実である。つまり、耳心地よいものを近くに置いていても、現実を見ていないだけだ。十七 蝶
蝶は感動した思いでであり、彼の心に触れた思いで数年でも色あせない。十八 月
月の光の中にいるようというのは、もの侘しさを感じながら美しいという意味だろう。そして、彼女は常にそうであったのだ。魅力を感じないわけにはいかない。面識がないので、その魅力と彼はかかわりがない。その魅力の一端を担っていないことが寂しいのだろうか。十九 人工の翼
情熱に駆られれば、生きることを辛いとは思わないだろう。しかし、それができない彼は理智に走った。そして、知れば知るほど、自由になり、強くなっていったのだが、それは社会との乖離に至るもので、生きていけはしない。二十 械(かせ)
自分の械は誰も背負ってくれない。手伝うと口だけは言ってくる。二十一 狂人の娘
彼は恋愛に溺れそうだが、それを理性で我慢していた。我々は対等だと考えることは恋心を抱いている。そして、恋心を抱くから、出会いをランデ・ブウと言うのだ。彼は彼女が夫のいる身分で躊躇なく恋愛に走ることを予感している。彼は恋心を抱いているが、理性によって妨げられていた。それが、憎悪となって、彼女の夫に女の心をとらえていないからだと軽蔑するになった。
二十二 或画家
彼が発見した、画家の新しい詩と自身の魂は、か細い神経の上では育たないだろうと悟ったのだ。いざとなれば、命に代えても、育ててしまう、そんな危うさを表現している。二十三 彼女
彼女も彼も身体はしんどく、熱に浮かされ、銀色のそらの日の暮れ出して、夢のような世界にいた。そして、考えも憂鬱になって、死ぬのも後悔しないほど、彼女と世界に酔っていたのだろう。二十四 出産
息子が生まれた瞬間にその子の苦しみを考えるのは、阿呆である。生まれた瞬間は人間と思うより、赤ちゃんなのだろう。どんな種類の哺乳類でも赤ちゃんは、赤ちゃんと言う種類のようだ。苦しみを感じているのは動物全般であるという考えなのだろう。二十五 ストリントベリイ
自分の抱いている嘘を暴かれたような気になったのだろう。二十六 古代
仏や馬や蓮の花に、つまり極楽にあるものに圧倒されることで、狂人な女を忘れられたのだろう。それが、幸運なのは、その女に悪い意味で、感情を揺さぶられたからだろう。二十七 スパルタ式訓練
彼も彼女に挨拶できなかった。彼女は幌馬車で反対の方へ行ってしまうのをだまって見るしかできなかった。二十八 殺人
環境が悪い場所にも宗教があり、心が休まるのだ。二十九 形
銚子の無駄のなく、実利にも適う事こそ美しいのだろう。三十 雨
大きいベッドは彼女との安定を表していて、降り続ける雨のように、飽きてきていた。けれど、彼女は相変わらず月の中にいるようだった。ただ、雨が不満な気にさせるのだ。三十一 大地震
現実は酸鼻である。現実の酸鼻を目撃しないでいられるから、夭折は幸せだ。罪を犯した者は本当に悪人なわけではない。悪人は生き続けさせられる。死は幸せなものに訪れるのだから、みんな死ねばいい。三十二 喧嘩
二人の喧嘩はお互いの自由を奪っていることによる不満が原因である。どうしようもない不満の中で、お互いに大切な思いがあるのだ。それが、一本の百日紅は雨の中、赤い花を光らせていたで表現されている。三十三 英雄
人にはそれぞれ自分の道がある。山を執拗に登り続けるロシア人をみて、それを確信した。そして、それぞれの道を進めるように、 人の心はいいようにも悪いようにも捉えられると言って、彼は後押しをしている。三十四 色彩
今に思いを馳せると、景色は色味を帯びて輝きだす。将来に対する情熱は今を物足りない物と考えてしまう。それはもったいないように思える。三十五 道化人形
激しさと穏やかさの二面性を無意識で感じていた。無意識の内に、彼は自分が道化であると知っていたのだ。三十六 倦怠
生活欲と製作欲は違うのだ。とはっきり述べることは、自分の発言を正当化していると思われるだろう。それは恥ずかしいことであるし、説明しても大学生に彼の思っている意味を伝えることはできないだろう。それを感じて、黙っていたが、はっきりと芒原が露した赤い噴火山のような赤い穂にあこがれるのもわかるだろう。ただ、その時はもやもやした気持ちであって、なぜあこがれているのか気づいていなかったのだ。三十七 越し人
相手に勝つことは誇れるものでもない。ただ、負けた方の気持ちを惜しむだけである。三十八 復讐
画の中に飛行機や、電車を描いても枠の中から出ることはできない。彼はその場から逃げ出したかったのだが、子供のことを思うとできなかった。狂人の娘は子供のためだと言って、彼に子を押し付けようとしている。そんな娘を殺せるほどに軽蔑していた。三十九 鏡
この頃の寒さは彼しか感じていなかったのだ。また、結婚する話を聞いている自分を鏡でみると、冷たく感じたのだ。独りなのは自分だけという意味だろう。四十 問答
善こそが天使なのだから、天使が善悪などないと語るのはおかしい。それはシルクハットを被った天使に都合のいい詭弁だ。つまり、資本主義社会において優位な立場の人間が、正しいとされる精神的な基準を作る。それは、彼らにとって都合のいい理屈の考えだ。四十一 病
モーツァルトも同じように、社会に対して恥と恐れを抱いたと知った。しかし、彼のように才がなく、苦悩を生かすことができないと悩んだ。どんなに評価されてても、苦悩が取れないのだろう。
四十二 神々の笑ひ声
自殺できる我々は神よりすごいのだ。という考えに対して、春の日の松林にいる神は嘲笑してくいることだろう。四十三 夜
夜が明けるまで、今度の船は保つのか。家族ができる喜びはあるが、それに精神を束縛される苦しみで、一度目の結婚は終わった。彼は壊れるのを恐れて涙だをこらえる彼女を、遠くに見えるのは破壊された一度目の結婚だ。と言って、泣かせて助けようとした。
四十四 死
死ぬと決断した中でも、生きたいと魂は叫び続ける。その声を無視すれば、死に入しまうに違いない。四十五 Divan
デイヴィアンはゲーテに憧れを持ちながらも、自分の咲ける場所で花を咲かした。デイヴァンの詩を読み終えられたら、生活的宦官に染まった彼自身を軽蔑していただろう。彼は生活的宦官から脱したかったのだろう。しかし、方法は見出したのだが、体力のなさに諦めていた。
四十六 譃(いつわり)
彼は独りで生きていたら、すぐに死んでいたのだろうか。家族の面倒を見るために、嘘の多い社会で生きなければならない辛さに苛まれていた。死ぬことを許さないのは、境遇と若さだったのだ。鎖につながれた境遇で、徐々においているのを実感していたのだろう。四十七 火あそび
薄氷にさしている光は、乾ききった笑顔のようだ。目に見える苦悩や苦痛があったわけではなく、もういいかと諦めていた。彼女はその諦めの気持ちに共感していた。心が重なりあう、ある愛の形なのかもしれない。四十八 死
彼女には恋愛感情を持ってしまったが、死と向き合った時には体を求める体力がないのだろう。生前に死は保険のように安心を与えたのだろう。そして、死ねば平穏が与えられる。その両方を考えていたのだろう。
四十九 剥製の白鳥
或阿呆の一生は彼の自叙伝である。そして、ほとんどの人に理解されないのはわかっていた。そして、どんな体験や考えを持ったところで、死んで残るのはただの身体だ。つまり、ただの箱であることを知り、悲しくなった。ただ、もう彼は発狂か自殺しかできないのだ。五十 俘(とりこ)
発狂を選んだところで死が待っている。彼らは死の俘だった。 「神の兵卒たちは己をつかまへに来る」と云う、自意識過剰である彼らを神は笑っているとおもったのだろう。 生きようとする気持ちは消えていたので、生きるために、ばかげた神を信じることはできなかった。ただ、科学のない時代ならば、それを信じることはできたのだろうかと思ったのだろう。五十一 敗北
彼は死と戦ったのだ。そして、身体もボロボロになり負けた。負けたので、飲み込まれようとしていた。彼は死と戦ったのだ。2017年4月10日月曜日
「中有の闇へ沈んでしまった」藪の中 芥川龍之介
あらすじ
藪の中で死体が発見された。第一発見者の木樵は「胸を刀で一刺しであり、死体の周りには何も落ちていなかったが、落ち葉が踏み荒れていたので、よほど手痛い働きでもしたのだろう。」と言った。旅法師は「二人組の男は太刀も帯びて居れば、弓矢も携えておりました。あの男が死ぬとは、人間の命は如露亦如電に違いございません。」と言った。放免は「捕まった盗人の多襄丸は、死骸の携えていた矢を持っていたので、奴が犯人だ。人殺しの前科もあるので、行方不明の女もどうしたかわからない。」と言った。その女の母は「多襄丸が娘の夫を殺した、娘も死んでいるかも」と言った。
多襄丸は「俺が女に恋をしたので、嘘をついて、男を藪の中に連れ出し縄で竹に結び付けた。そして、女に求婚すると、女はどちらか1人だけしか結婚できないからどちらか死んでと言ったので、その女の覚悟に引っ張られて、その男と決闘して殺した。女はそのすきに逃げてしまった。おれは首をつられる覚悟がある。」と白状した。
女は「多襄丸に手ごめされた後、縄につけられた男の目を見ると、私を蔑むような冷たい目で見られ、そして、殺せと目で訴えてきたので、私が刺した。そのあと自殺しようとしたが、できなかった。」と清水寺で懺悔した。
男の死霊は「女が手ごめにされた後、多襄丸に説得させられて結婚しようとしたので、怒りに満ちた。そして、女が私を殺せと盗人に言うと、盗人は怒って女を殺そうとしたが、女は逃げていった。縄をほどいて自由になったが、手元に会った小刀で胸を刺して死んだ。」と言った。
自分の基準で、他人の考えを推察してしまうが、他人の真意はわからない。
木樵、旅法師、放免、媼はそれぞれ、勝手な推測をして適当に予想している。ただ、どれもが盗人の多襄丸と女と殺された男の話した事実と異なっている。
事実を知っている三人の主張は、それぞれの性格が表れている。死ぬ覚悟をしている多襄丸の話に出てくる女は覚悟を決めていて、懺悔している女の話に出てくる男は恥を感じている。そして、成仏できずに中有の闇に沈んでいった男の話に出てくる多襄丸は、女の言動に怒りを覚えた。これは自分の基準で、他人の考えを推察しているからだ。三人のどの話でも、それぞれ同じ人物だと思われる性格の人はいない。他人の考えは想像したところで、真にはわからないことを伝えたいのだろう。
当事者は藪の中で事実も藪の中、当事者以外は馬の通う路で藪の中の真実を知る由もないという話である。
2017年4月8日土曜日
「お授けになる運の善し悪しがわからないだろう」 運 芥川龍之介
あらすじ
青侍が、清水へ参詣しに行く人の往来を仕事場から眺めていた。そして彼は、主のであるが、仕事中の陶物師に「参詣はそんなに効果があるかね。儲けにつながる運がもらえるのであれば行ってみたいものだが、本当に授けてもらえるのだろうかね」と尋ねた。陶物師の翁は「あなたには授かる運の善し悪しが、わからないでしょう」と答えた。青侍はその意味がわからなかった。日が傾きだして、影が伸びはじめて来て、物売りの女が桜の枝を持って通りすぎたとき、翁は言った。
「三四十年前、娘が清水の観音様に願掛けに行った。器量がよくお籠りをするにしてもボロで気が引けるような人でした。その娘は母が死んだばかりで頼るあてもなかった。坊主が陀羅尼を、くどくど唱えていて眠そうになっていた時、その声がお告げに聞こえてきた。それは云い男と帰路にであうので、その男のいう通りにしなさいとのことだった。そして帰って行く途中に後ろから抱きつけられて、無理やり八坂寺の塔へ連れられた。朝になると、男は夫婦になろうと申し出た。夢のおつげでもないのなら、ともかく、観音様の思召しだと受け入れて、盃を交わした。そして、男は当座の金を娘に授けた。男は用で出て行った。塔の奥を覗きに行くと、大量の金目の物があり、その男が盗人とわかった。そして、貰った金を持って家をを出ようとすると、老婆の尼法師が止めに来た。尼法師も娘に出ていかれたら都合が悪いと止めたが、娘は老婆と殴る蹴るの喧嘩をして、やっとの思いで出ていった。」「後になってわかったが、老婆はその時に死んでいた。そして、娘はその金を使って、宿をとった。何やら騒がしい外を見ると、検非違使が盗人のその男を取ってそいつの住処を調べに行こうとしていた。」「どういうわけか、それを見た娘は泣いてしまったのだ。それを聞いてつくづく観音様に願をかけるのも考え物だと思ったよ。」
「しかし、その後の生活は貰った金を本に安楽に過ごしたのだろう」「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。その娘は幸せ者だ。」と青侍は言った。
「じゃ観音様を、ご心身なさいまし。」
「そうそう、明日から私も、お籠りでもしようよ。」
穏やかな心を持つ人と、功利的な人は、お互いの考えが相容れない。
青侍に翁はある娘の話をしたがらなかった。これは仕事をしていたからでもあるが、お互いの考えが相容れないと知っていたからとも考えられる。 翁は運が善いか悪いかが、若い人にはわからないと言った。しかし、翁の言葉に矛盾している。ある娘の話を聞いたとき、悲しい話だと思ったと言っていた。そこの仕事場は百年前も同じであるようと描写もされているので、ある娘の話は三四十年前の出来事の舞台であるようにも考えられる。なので、リアルタイムで聞いているとすれば、翁も若かっただろう。それなのにもかかわらず、若いからわからないと言うのは、話をする気がなく、誤魔化そうとしているのに他ならない。
つまり、歳が故に穏やかな心を持つ人と、功利的な人はお互いの考えが相容れないと知っていたからだろう。
日が傾いてから暮れまでの長い時間話していたが、結局翁は伝えたかったことは青侍に伝わらず、都合の良い解釈をされてしまった。
芸術家(陶物師)は人の心に敏感で、戦士(青侍)は人の心に鈍感である。
ある娘はお縄に掛かった男を見て泣いていたし、翁も同じような気持ちになった。翁は青侍に自分の信心深い人の心がわからないと知っている。それは他人に対して興味があり、注意深く観察しているから、わかることである。
しかし、青侍は「人を殺したって、物取りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね」と述べた。ある娘の行動は大した事ではないという楽観的で無粋な考えだ。それに加え、運を貰いたいと言うが、観音様を信じようともしなかった。その功利的な考えの善し悪しは言及しないが、現代にいればストレスを感じにくく、ソルジャーとして戦ってくれそうな良い人材であるだろう。
2017年4月6日木曜日
「天命を知っても尚、戦うものだろう」英雄の器 芥川龍之介
あらすじ
呂馬通が十人の幕営の中で、「項羽は敗北を天のせいにするというので、英雄の器でない。」と言い出した。しかし、劉邦は「天命を知っても尚、戦うのが英雄の器だ。」と言った。
肯定的にみるか、否定的に見るかで評価は変わる。
捲土重来も英雄であるが、天命を知っても尚、戦うことも英雄の器である。何をとっても英雄の器と言える。対象を肯定的に見るか、否定的に見るかで変わっていくものと言いたいのだろう。とはいえ人を肯定的に評価する方が格好良い。
2017年4月4日火曜日
「その心相当の罰を受けた」 蜘蛛の糸 芥川龍之介
あらすじ
朝方に、蓮の白い花から好い匂が絶間なくあたりへ溢れる蓮池のふちをお釈迦様はぶらぶらと歩いていた。お釈迦様は蓮の葉の間を覗くと地獄にいるカンダタが見えた。お釈迦様は彼の行った生前で唯一の善行を思い出した。その報いとして銀の細い蜘蛛の糸をたらして彼を助けようとした。その善行とは、この男が深い林を通っている時に、路ばたを這う蜘蛛を見つけたので、踏んづけて殺そうと足を挙げたが、この小さい命をむやみにとるのは可哀そうだと思いなおし助けてやったことだ。
上からつりさげられた蜘蛛の糸を見てカンダタはこれを伝えば天国にいけると確信して、すぐに上り始めた。疲れて休憩した時に下を覗くと、地獄は遠く、小さくなっていた。そして、この糸をたくさんの人が上ってくるのが見えた。カンダタは糸が切れるのを恐れて、下に向かって「この糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と喚いた。その瞬間に今までなんともなかった蜘蛛の糸がぷつりと切れて、カンダタは地獄へ真っ逆さまに落ちてしまった。
お釈迦様は一部始終見ていた。お釈迦様は悲しくなったが、またぶらぶらと歩き出した。自分ばかりが地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその相当な罰を受けて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様の目から見ると、浅ましく思われたのだろう。そんな出来事があったにもかかわらず、極楽はいつものように、白い花はゆらゆらうてなを動かして、好い匂があたりに溢れていた。ただの午前のひと時の出来事だった。
善行が褒美を生むのではなく、その心を持っているからこそ、それ相当の褒美が得られる。同様に悪行が罰を生むのではなく、その心が相当の罰を生み出す。
ふつうの人では善行とは言えない。しかし、カンダタが善い心を持った瞬間である。
お釈迦様が地獄にいるカンダタに向けて糸を垂らした理由は彼が生前に善行を行ったからである。
泥棒や人殺しもしているカンダタが行った唯一の善行は、路ばたで這っている蜘蛛を踏み殺さなかったことだ。しかし、これは善行と言えるのだろうか。路ばたで這っていようが無視すればいいのだが、カンダタはわざわざ踏み殺そうと足を挙げた。ことのき蜘蛛は死を感じただろう。結果としてカンダタが蜘蛛の命を可哀そうに思い踏み止めたが、それは無駄に命を殺そうとしたが止めただけである。相手に死を感じさせて、それを止めることがふつうは善行であると言えない。ただ、結果殺さなかったのだから、殺すことが常の悪人カンダタからすれば善の心を持った瞬間であり、善行であるといえるのだろう。
善い心のままであれば極楽へ行けた。
カンダタは糸をのぼる地獄の住人に「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いた時に糸は切れた。しかし、それはこの言葉ではなく、糸を伝う途中で休憩して下を向いたことでこの言葉を発する、無慈悲な心が生まれたからだ。もし彼が下を見ずに夢中でのぼり続けていれば結果は変わっただろう。
善行こそが相応の褒美を得られるとすると、お釈迦様は悪人である。
カンダタは極楽へ行けると期待しながら地獄へひっくりかえってしまった。この、期待しながら落ちていったことは、唯一の善行である蜘蛛に死を覚悟させながら止めたことと対比される。
このことから蜘蛛に行った善行は地獄から出る希望を与えるのみに等しいと思われる。しかし、それは間違いである。善行こそが褒美を生むと考えると、お釈迦様が落とすことを意図して糸を垂らしたのなり、お釈迦様は悪人といえる。しかし、彼は極楽に居るのでそうではない、本当にカンダタを助けるつもりであったのだ。
心こそがその人間の環境を表す。
この話は善い行いをしたからチャンスを得て、悪い行いをしたから絶たれたという因果応報を描いているのではない。
善行が褒美を生むのではなく、その心を持っているからこそ、それ相応の褒美が得られる。同様に悪行が罰を生むのではなく、相当な心が罰を生み出すとことを書かれている。
呟きたいこと
自分に利益がかえってくると期待して行うことは善行ではなく、投資である。これは褒められることではない。利己的では決して極楽へ行けないと言っているようだ。
極楽の穏やかさと地獄のせわしなさの対比がとてもきれいだ。地獄では極楽に上がれる千載一遇のチャンスでてんやわんやしているのにもかかわらず、極楽では単に午前の一時であり、まだ今日が始まったばかりである。
悪人のせわしなさと、心の清い人の余裕が比べられていて、それを極楽と地獄で表現されているようだ。
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